中2 社会(歴史)「室町時代」無料学習プリント(答えつき)
学年・組 名前 点
- 鎌倉幕府をたおしたあと、天皇中心の政治を始めたのは( )天皇である。
- 建武の新政は、天皇や( )を重んじる政治だったため、武士の不満が高まった。
- 武士の政治の復活をよびかけて兵をあげ、建武の新政をたおしたのは( )である。
- 後醍醐天皇が吉野に開いた朝廷を( )という。
- 足利尊氏が京都に立てた天皇の朝廷を( )という。
- 二つの朝廷が並び立って争った約60年間を( )時代という。
- 足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは西暦( )年である。
- 南北朝の合一を実現した室町幕府の3代将軍はだれですか。
- 南北朝が一つにまとめられたのは西暦( )年である。
- 建武の新政のころ、京都の鴨川の河原に立てられ、当時の政治の混乱を風刺した文書を( )という。
- 建武の新政が2年あまりでくずれた主な原因は、どのような身分の人々の不満が高まったからですか。
- 足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは、建武の新政が始まってから何年後ですか。
- 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の合一までは何年ですか。
- 南北朝の争乱が長く続いた中で、力を強めて国を支配するようになったのは、国ごとに置かれた何という役職の武士ですか。
- 1352年、室町幕府が守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を軍費として取り立てることを認めた法令を何といいますか。
- 南朝と北朝のうち、室町幕府が支えたのはどちらですか。
- 後醍醐天皇が開いた南朝は、何代の天皇にわたって続きましたか。
- 建武の新政で、後醍醐天皇がお手本にしようとした、天皇みずから政治を行った平安時代の政治は、摂関政治と天皇親政のうちどちらですか。
- 南北朝の争乱のころ、各地の武士が南朝と北朝のどちらにつくかを決めるとき、最も重視したのは何を守り広げることでしたか。漢字2字で答えなさい。
- 1336年、後醍醐天皇が京都を逃れて吉野に移ったのは、だれと対立したからですか。
答えと解説
- 後醍醐 元号を建武と改め、天皇みずから政治を行った。
- 公家 倒幕に協力した武士への恩賞が少なく、新しい政治への不満が広がった。
- 足利尊氏 尊氏は京都に新しい天皇を立て、1338年に征夷大将軍となった。
- 南朝 京都の朝廷が北にあたることから、吉野の朝廷を南朝とよぶ。
- 北朝 北朝は室町幕府に支えられた。
- 南北朝 各地の武士も南朝方と北朝方に分かれて争った。
- 1338 これによって京都に新しい武士の政権が成立した。
- 足利義満 1392年に南朝と北朝を一つにまとめ、長い争乱を終わらせた。
- 1392 同じ年に朝鮮半島では李成桂が朝鮮国を建てている。
- 二条河原落書 「此比都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨」で始まり、新政の混乱をよく伝えている。
- 武士 倒幕に協力したのに恩賞が少なく、公家を重んじる政治に武士たちが反発した。
- 4年後 建武の新政は1334年、尊氏の征夷大将軍就任は1338年。新政は2年あまりでくずれていた。
- 59年 1333年から1392年まで。その間の大部分は南北朝の争乱の時代だった。
- 守護 幕府は戦いに勝つために守護に大きな権限を与え、守護大名へと成長していった。
- 半済令 これにより守護は国内の武士に土地を分け与えて家臣にし、力を強めた。
- 北朝 足利尊氏は京都に光明天皇を立てた。南北朝の合一の際も、北朝の天皇が位を受けついだ。
- 4代 後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代。後亀山天皇のときに北朝と合一した。
- 天皇親政 後醍醐天皇は、摂政や関白を置かずに天皇が直接政治を行った醍醐・村上天皇の時代を理想とした。
- 領地 自分の領地に有利なほうにつき、状況によって寝返ることも多かった。
- 足利尊氏 尊氏が京都を制圧したため、後醍醐天皇は吉野で自分こそが正しい天皇だと主張した。